見えるものと見えないもの

佐藤優の「世界史の極意」を読了。

Amazon.co.jp: 世界史の極意 (NHK出版新書 451): 佐藤 優: 本

 

印象に残った点

本で「神学」は目に見えないことを扱う学問であり、「神学部」がない大学はヨーロッパでUniversity(総合大学)を名乗れないという点が印象に残った。

イギリスでは成文法ではなく不文法であり、当然ながら目に見えない。イギリスが不文法にした理由については知らないが、伝統を大切にするためという理由はあるだ追う。また、不文法を利用していることが鑑みて、ヨーロッパの中でもイギリスはより目に見えないことを扱うことを重要視していると言えるだろう。

 東大大学院時代の先生もイギリス推しではあったが、それは上記のように目に見えないもの(より根本的なもの)を追う思考を評価していたように思われる。

 具体的にはヒトラーに戦争を仕掛けられたとき、アメリカは「どうやって勝つか」を考えるのに対して、イギリスは「そもそもなぜ彼らは戦争をしかけたのか」を考える傾向にあると述べていた。それは現象のより根本的な理解を深めるに貢献するため、評価していると理解している。

 

見えないものを見ることが教養

出典は明らかでないが、見えないものを見ることが教養という話を聞いたことがある。

 この文から最初に思い出すのは、「大切なものは目に見えない」(Important things are invisible)というペルソナ2で使用されている言葉だった。

そこでは「人の感情」・「夢」といったものを指す時に使われていた気がする。

 

マンションの明かりを見て、その明かり一つ一つに人生が詰まっていると、各明かりの裏にある人生の大きさに思いを馳せることは、見えないものを見ることだと解釈している。
この場合、「明かり」を媒介にした物事に対する想像力と言えるだろう。
それは最初に述べた「感情」に対する想像力と同じで、感情は事実や態度を媒介として推測する。

人は見たいものだけを見る、とパスカルは言っていたらしいがその通りだと思う。マンションの明かりを見て、技術の進歩に感動する人もいれば、それが大多数の人に普及していることに注目する人もいる。事実は一つだが、解釈は無限に行うことができる。より多く・深く解釈ができる人が、複眼思考、多面的に見れるというのだろう。

 

目に見えるものは誰にでも理解できる。それは事実だから。事実を否定することは難しい。
厳密にいえば、事実の解釈、事実の認識は変更することはできる。「ノートがある」の解釈は、「本がある」に変更することができるといった具合にだ。
しかし、「一辺が閉じられた紙の束ががある」という事実は変わらない。

 

誰にでも理解できることは良いことか悪いことか

最後にだが、「誰にでも理解できる」という言葉には、マイナスとプラスの両方のイメージが湧く。プラスと言えば、多くの人に影響を与えられる、簡単に理解できる、といった点だろう。一方、マイナスと言えば、衆愚政治と言われるような、大衆に利用されるイメージがある。

 

特に理由はないが、注意していきたい。

 

以上雑記帳なので、まとまっていないが、「見えないもの」に対する一考察としたい。