アメリカはITのみ、中国はIT+安い労働力でイノベーションを実現している

先日「アフターデジタル」という本を読んで視野が広がった。ITのみでイノベーションを起こすのではなく、IT+安い労働力でのイノベーションも視野に入れた方が良いと。

https://www.amazon.co.jp/アフターデジタル-オフラインのない時代に生き残る-藤井-保文/dp/4296101625

 

事実、中国で生まれるイノベーションには、安い労働力により実現できているものがある。例えば、フーマーというアリババが運営しているスーパーを挙げたい。最先端のCXを実現できているモデルケースとして知られているが、ここでは店舗から3km以内であれば30分以内に配達を実現するというサービスを取り上げる。

サービスのプロセスはこうだ。

1,顧客がアプリ上で欲しい商品を購入

2,店舗の担当者が3分以内に商品をかごに入れる

3,かごは店舗内の配達センターに天井のレールで運ばれる

4,配達センターには配達員が待機しており、注文から30分以内に配達を行う

 

 個人的には非常に便利なサービスだと思う。特に生鮮食品は料理をするタイミングで直ぐに欲しいし、配達が早いと鮮度も良いというメリットがある。ここでのポイントは4の配達だ。自動配達についてはドローンや自動運転等による実現が試みられているが未だに実現は遠い。その中で特に中国では顕著だが、安い労働力を存分に生かして、コストおよび技術の両面の制約によりIT化か難しい業務を「人」により実現するアプローチはとても斬新だと感じた。

 システムだけでイノベーションを起こした事例はあるが、IT化に適していない部分も無理にIT化するのはコスパが悪いし、IT化に向いている部分については世界のどこかにいるアルゴリズムやプログラミングの天才が行った方が良く、競争が激しいため参入したくない。そこでこの中国モデルはビジネスモデルを検討する中で、一つの解決方法だと思う。

 とここまで書いて、SierUber EatsのようにIT+人というモデルはあることがわかった。

Sier=IT+高級派遣

Uber Eats=IT+安い労働力(炎上するかもしれないが、Uber Eatsの配達員の給料はそこまで高くないと想定。もし違っていたら指摘をもらいたい。稼げるのは全然構わないため、「Uber Eatsで年収1000万」という本が出てくることを願う。)

 

 とはいえ、僕は今までITにフォーカスしすぎていたと思う。その「ITのみで実現する領域」は競争が激しいので、「人」にフォーカスした方が新しいビジネスモデルが浮かぶ気がする。余談にはなるが、僕が好きなビジネスモデルは、高級でもより良いサービスであるため消費されるモデルだ。高ければ高いほどよい。高いほうが雇用は生まれると思うし、そのサービスを利用することが多くの人の憧れになって、かつての車やブランド品のように、それを手に入れるために頑張る人も増えるだろう。余談にはなるが日本を含む先進国に足りないのは「憧れ」だと確信している。ビジョンやあるべき姿とも言い直すこともできる。IT+人で高付加価値で誰もが憧れる高級サービスを作ってみたい。

 安い労働力は奴隷制度と言えるかもしれない。ただこれは一時的なものと考える。雇用が生まれる中で彼らの給料もいずれ上がり、人力での配達はいずれコスト的に見合わなくなる日が来ると思う。その時には自動配達の技術も進んでおり、人は機械に置き換わるだろう。

 

※アフターデジタルについてはほとんど触れていませんが、良い本なのでおすすめです。

 

草月流の展覧会に行ってきた

 華道の先生に教えてもらい、日本橋高島屋で行われている草月流の展覧会に行ってきた。華道を習って4年になるが、初めて参加したが予想外に良かった。20点くらいの作品を飾るのかと思っていたら、予想に反して100点以上の大小の作品が展示されており、人の数も多く、短い時間ではあったけれど入場するのに並ぶ必要があったほどだ。

 男性一人で来ている人は僕くらいで、大体は華道を習っている女性とその旦那のようであった。作品は素晴らしく、自分自身が生けることを想像すると今後に活かせそうに思えた。加えて、草月流のコンセプトについて思ったことがあるので書きたい。

 

僕は自然主義を恐れていて、人工的なものを目指している草月流に惹かれている。

 作品を見ていく中で非常に人工的な作品、感覚ではあるがSFのような作品に惹かれることがわかった。そういえば初代家元である蒼風先生も、華道が野に咲く花のようでは意味がないと言っていた気がする。というのも、野に咲く花のようにするのであれば、そのままにしておけばよく、自然な状態を超えることはできないのだから、華道にて行う必要はない。すなわち、自然主義を否定し、人工的な要素を組み込むことを肯定していると理解して良いだろう。

 自然主義への否定意識が強い僕にとって、そのようなコンセプトとても共感できることろであった。自然主義や懐古主義はいつの時代もはこびっており、もちろん過去に素晴らしいものがあることは理解しているため、完全に否定することはしない。弁証法だと、過去は繰り替えすが全く同じものでなく、螺旋階段のように同じ場所だけど階が異なるというような、進化を繰り返していくため、過去を振り返ることはとても重要だと思う。

 

自然主義は思考停止のリスクにつながるのでは

 ただ一方で、思考停止につながるリスクを恐れている。全く新しいものを作ることに比べ、過去や自然は既に存在しており具体的に理解することができる。それは思考力が弱い人や、考えたくない人、変わりたくない人にとって魅力的な考えだと思う。自然に帰れば良い、過去と同じようにすればよいというのは、

現実(テーゼ)と過去(アンチテーゼ)のギャップから止揚するというプロセスで文明は進化していると理解しているが、容易な思考停止に陥りがちな自然主義、懐古主義加えて宗教も思考停止を促す気がする。革新主義という名前があるかわからないが、止揚を目指す考えこそ最も思考停止に陥りにくく、皆が目指すべきところな気がする。自然と過去と現実も全て包括して、皆が満足する新しい未来を作り上げていくことが望まれる。

 

 自然主義への懸念がある僕にとって、人工的な芸術作品を目指している草月流は僕にとってコンセプトレベルで共感できるものであった。

 

 

 

 

草月流の展覧会に行ってきた

 華道の先生に教えてもらい、日本橋高島屋で行われている草月流の展覧会に行ってきた。華道を習って4年になるが、初めて参加したが予想外に良かった。20点くらいの作品を飾るのかと思っていたら、予想に反して100点以上の大小の作品が展示されており、人の数も多く、短い時間ではあったけれど入場するのに並ぶ必要があったほどだ。

 男性一人で来ている人は僕くらいで、大体は華道を習っている女性とその旦那のようであった。作品は素晴らしく、自分自身が生けることを想像すると今後に活かせそうに思えた。加えて、草月流のコンセプトについて思ったことがあるので書きたい。

 

僕は自然主義を恐れていて、人工的なものを目指している草月流に惹かれている。

 作品を見ていく中で非常に人工的な作品、感覚ではあるがSFのような作品に惹かれることがわかった。そういえば初代家元である蒼風先生も、華道が野に咲く花のようでは意味がないと言っていた気がする。というのも、野に咲く花のようにするのであれば、そのままにしておけばよく、自然な状態を超えることはできないのだから、華道にて行う必要はない。すなわち、自然主義を否定し、人工的な要素を組み込むことを肯定していると理解して良いだろう。

 自然主義への否定意識が強い僕にとって、そのようなコンセプトとても共感できることろであった。自然主義や懐古主義はいつの時代もはこびっており、もちろん過去に素晴らしいものがあることは理解しているため、完全に否定することはしない。弁証法だと、過去は繰り替えすが全く同じものでなく、螺旋階段のように同じ場所だけど階が異なるというような、進化を繰り返していくため、過去を振り返ることはとても重要だと思う。

 

自然主義は思考停止のリスクにつながるのでは

 ただ一方で、思考停止につながるリスクを恐れている。全く新しいものを作ることに比べ、過去や自然は既に存在しており具体的に理解することができる。それは思考力が弱い人や、考えたくない人、変わりたくない人にとって魅力的な考えだと思う。自然に帰れば良い、過去と同じようにすればよいというのは、

現実(テーゼ)と過去(アンチテーゼ)のギャップから止揚するというプロセスで文明は進化していると理解しているが、容易な思考停止に陥りがちな自然主義、懐古主義加えて宗教も思考停止を促す気がする。革新主義という名前があるかわからないが、止揚を目指す考えこそ最も思考停止に陥りにくく、皆が目指すべきところな気がする。自然と過去と現実も全て包括して、皆が満足する新しい未来を作り上げていくことが望まれる。

 

 自然主義への懸念がある僕にとって、人工的な芸術作品を目指している草月流は僕にとってコンセプトレベルで共感できるものであった。

 

 

 

 

物理学博士、東大の先輩と食事をして気づいた点

今週は仲の良い素粒子博士と、会社の元先輩と食事をした。両方共別々の飲み会だった。

 

素粒子博士(同い年)との会話

 素粒子博士は、1年半程度で二階級昇進しており、凄い勢いで出世をしている。僕も知っている前職のパートナー(彼にとっては元上司)に誘われて転職をしたらしい。前職で出世した直後に、ポジションが上がる転職をしたという訳もあるが、素晴らしい。

彼を引き抜いたパートナーは先見の明があると思うし、長期的に考えると優秀な男はやはりそれに見合ったポジションを与えられるのだろう。

 

 彼との会話で気になった点について書きたい。出世の話になり、30前半でパートナーになる人の話が出た。彼はそんなに生き急いでどうするのかと言っていたのが引っかかり、僕はそれは事例次第だろうと言った。彼はパートナーに対して憧れがないからそんな達観したようなことを言っているが、彼の青春を捧げた物理学の世界の事例だったら同じことは言わない。僕は専門外だが、仮に物理学の世界で30代前半で卓越した研究結果を出したら、彼は凄いというだろうし、「そんなに生き急いでどうするのか」等とは言わない。なぜならそれは人生を捧げる価値があることだと彼はわかっているから。彼が全く価値を置かないポジション、この場合はコンサルファームのパートナーだが、それを目指して全力で取り組むことに対して無意味さを感じ、達観したようなことを言ったのだろう。

 一緒に働いている時もコンサルタントに失望を重ね、最後はパートナーにもがっかりしていた彼だからそう思うのはわかる。彼も僕のコメントは正しく、物理学の世界の事例だったらそうは思わないと言っていた。一方で、生活のために自分が価値を置かないコンサルティングに所属している自分を皮肉っているとも思えた。今はコンサルティングファームで良い経験とポジションが与えられているようなので、所属していることのメリットはあると思うが、いつか彼が自分が価値を置く目標をみつけ目指すのを祈っている。

 

東大の先輩との会話

 モデリングについて書きたい。僕の理解ではモデルとは「世界をある切り口で単純化したもの」である。ただ、ちょっと調べてみると学問によって違うらしい。

kotobank.jp

 

 複雑な要素で構成されている世界を少ない要素(単純化)で説明することに楽しさを覚えると先輩が言っており、確かにそうだと思った。人間は複数の要素を理解することはできないから、モデルは人間が世界を理解するための見方とも覚える。熱伝導モデル等の、物理モデルはまさにその証左だろう。

 ただし、Deep learning等のアルゴリズム(手順)はモデルなのかどうか気になった。アルゴリズムはそういうものであって、何かを説明しているのだろうか。例えばDeep learningで株価を予測するアルゴリズムを作成した場合、そのアルゴリズムは株価を予測できる道具ではあるが、株価の世界を説明しているのだろうか?

 この部分は自分でも整理はできていないが、単純化された物理モデルのように(例えば運動方程式のv=at)、世界をより理解できるもの方が先輩と同様に自分も興味を持てそうな気がする。

 上記のように考えるキッカケがあったため、忘備録として記事を書いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファーストガンダムを全話見てニュータイプに憧れた

 この二週間、Amazon primeで無料視聴できる初代ガンダムを全話見た。今まで兄のスパロボを見ていたためなんとなく知っていたが、やっとガンダムを理解できた。映画版は割愛されているため、やはりアニメ版をみるしか無いだろうということで、アニメ版を選択した。

 10年以上前になるがラーゼフォンをアニメ版を全話見てから、劇場版を見たときに、劇場版では魅力がわからないというのを感じた。もちろん、劇場版ならではの展開も合ってそれはそれで楽しめたのだが。そして一昨日からZガンダムのアニメ版に手を出したガンダムは最後の15話は面白かったが、途中ジャブローにいるあたりは少し中だるみをしていた。今Zガンダムは15話程度であるが画像もきれいで、とてもおもしろい。今日だけで7話は見た。

 何よりもガンダムを見てニュータイプであることに憧れを覚えた。バイクに乗るときも自分はニュータイプであると信じることで非常にテンションが上がる。加えてテトリスをやったが、その時も自分がニュータイプであると信じることでパフォーマンスが上った気がする。31歳にもなって何を言っているんだという気もするが、中二病の延長と捉えたい。男はこういったロマンとかでテンションが上るものだと思うし、自分がそうである以上否定できない。仕事のテンションも上がるならなおさら素晴らしい。

 まとめると、31歳ではあるがテンションがあがるロマン見つけ、それを大切にして生きていきたいと思った。

 

 

 

 

 

 

大学の図書館にこもってみた

大学の図書館に来ました

 三連休というのに、遠出をするタイミングが無く、昨日今日と大学の図書館に来ている。東京大学はOBに優しく、卒業生カードで在学中と変わらず利用することができる。自転車で10分という立地に住んでいることもあり、便利ではあるのだが、来ることに対する気恥ずかしさもあるため、最近は足が遠のいていた。勉強の休憩がてら、雑多にいろいろ書きたい。

 

外国人は遊ぶことに対するモチベーションが高い

 会社の外国人はみんな三連休に興奮しており「カズは週末に何をするんだ?」と聞かれた。みんな「俺は彼女と長野の温泉に行くぜ」、「スノーボードに行く」等々、プランが充実しており羨ましいという感想の前に、驚いた。みんな人生を謳歌するのがうまいという印象と受けた。日本人が下手とは思わないけれど、外国人は全力で楽しんでいると感じた。正直弊社はホワイトだし、ワークホリック?なにそれ?という雰囲気だ。そのように全力で楽しんでいることが少し羨ましいというか、学びがありそうと思った。僕ももっと積極的に遊ぶべきなのだろうか?

 

大学の図書館にいることで、寂しさが紛れる

 そのような中、僕は図書館に来るという選択をした。一つは、相棒がいないこと、2つ目は旅行に行くことで僕の心の中にある不安は取れないこと、3つ目は寒いためだ。特に、相棒がいない中旅行に行っても孤独感が増すだけで辛い。月に一度は自然に触れたほうが自律神経を整えるのに良いため、山梨に帰ることも考えたが、それは来週にすることにした。図書館に来て驚いたのは、三連休にも関わらずかなりの学生?が来ており、みんな一生懸命勉強していて、寂しさが少し紛れたことだった。結局僕の根源的な不安は、自分の能力に対する不安であって、勉強することでそれが解消されることは間違いがない。寂しさも紛れるとあればこれは良い選択であったと実感している。

 そしてこれは大学の図書館でなければ駄目で、尊敬している東京大学の学生と一緒に勉強できているということが大きい。31歳にもなって、まだ大学にしがみついている気がして恥ずかしさはかなりあるが、効果があるうちは周りの視線を気にすることなく。割り切って開き直ることにしよう。そういう意味では自習室だと効果が見込めないと思われる。言ったことないのでわからないけれど。

 

勉強したこと

主に英語・現代文の2つを勉強した。途中で日本酒の雑誌を読んだりもした。現代文は無事一冊終わったので嬉しかった。早稲田でも合格点がとれていることがあったので、昔よりは成長していることが実感できた。次のレベルの参考書も先程注文したから、それも取り組みたい。

 

現代文からの学び:よく「見る」こととデザインシンキングの類似性

 「見る」ことに対する重要性が複数の問題で述べられていた。確かにデッサンをするとなると、能動的・身体的にものを「見る」ことになり、見方が大きく変わるというのは納得できる。小説を書くには具体的な記述を行うことが大切で、よりリアリティがある文章を書くためには「見る」力が不可欠だろう。評論を「読む」ことも同様で、読む「深さ」と見る「深さ」は同様であり、評論も小説もこれは同じと言える。

 最近流行りのUXやデザイン・シンキングもユーザを「見る」、ユーザをヒアリングすることが重要視されており、この類似性に気づけたのが面白かった。カメラは能動的だが、確かに絵を書くとなるとそれに対してとても能動的に線・形・色等を意識するようになる。僕の水墨画は先生のマネ、よく言えば模写をしているだけなので対象物を注視することは無いが、それでもわかる。

 一方華道は、デッサンとは「見る」ということに注力していないと感じる。イマイチ説得力は無いが、全体のバランスを考えているだけだからかもしれない。先生は違うのだろうか?花を注意しているだろうか? とはいえ草月流にもデッサン+華道というレッスンはあり、それなどは「見る」力が養われる気がする。

 ともかく、最近のビジネスで重要視されているデザインシンキングに「見る」力が重要なのであれば、それを養うと思われるデッサンを学ぶことはとても効果的ではないだろうかと考える。

 

とりあえず図書館にいることについて

 研究室にいたときもそうだが、とりあえずその場所に行くことが大切だと考えてる。無駄なことも散々しているが、12時間いれば、7~8時間は研究していた気がするし、図書館も同様に全ての時間を勉学に費やさなくても良いと思う。効率を求めることは重要だけれど、特に僕は息切れするし、最高率を求めるより時間のボリュームをどうやって投資するかの方にフォーカスしたほうが、結果として投入時間量が増えてうまくいく気がする。つまり、選択と集中だ。

 

音楽

屋久島の自然の音楽を聞いているが。これが一番集中できている気がする。自然不足なのだろうか?

 

目標

毎日頭が疲れることを目標にしたい。むしろ疲れたら終了とする。これを毎日できればどこまでも成長できるだろう。難しいけれど。

 

いろいろ読んだ

過去のブログを読むと、1/26に蘭陵王を読んだらしい。

それから2週間ほど経過し、下記6冊を読んだ。

楼蘭

敦煌

・インド三国志

・非花

・天竺熱風録

・異色中国短編傑作大全

 

「インド三国志」だけは純インドものだか、それ以外は全て中国がメインとなっている。ただ、「天竺熱風録」は中国人がインドで暴れている話のため、両方絡んでいる。

今回は各本の感想について書くのではなく、これだけ読んだことついて述べたい。(本当は各本の感想を書いたほうが望ましいのだが、次から次へと読んでしまって書くことをめんどくさがって、もう6冊分もかかずにいてしまった。小説だから感想はいらないという、よくわからない理屈を隠れ蓑にしたせいもある。実際どんな本でも学べることはあるはずだし、自分自身の心境の変化が生じたとしたらそれはとても価値があることなので、感想を書くべきだろう)

 

小説を読むことの目的

年が明け、中国物の小説を読み進めるうちにかれこれ10冊程度になった。短編集も3冊含んでいるため、冊数に比較してもっと多い物語を読んでいる印象である。今回取り組んだ背景として

①小説を読むことで活字に対する抵抗を減らす

②中国の歴史について詳しくなる

の二点を目標としていたが、これに向かって進んでいると感じている。②についてはどこの国でも良いが、勉強になるからよいと思っている。しかし、三島由紀夫のように、日本語の完成度が高いと言われている作品を読むことで、活字に対する洗練さを鍛えることができるのであれば、②を代替できると考えている。どちらにせよ、小説という軸で①をキープし、②については何かしら効果が見込めれば良いとし、今後も続けて行きたい。徐々に難しい本に取り組んでもよいと考えているため、若干難しい井上靖にも取り組むようになったのは良い傾向だった。

 

井上靖について

余談にはなるが、井上靖の小説を今回始めて読んだが、なかなか僕に合っているようだ。人物描写の深さ、情景描写の深さ、時代考証の正確さ、深さ、のどの要素なのかはわからないが、彼の作品は他の作品より一段階深く感じる。これは新聞記者の経験なのか、30歳になってようやく大学を卒業したからなのかはわからないが、典型的な高等遊民であったと思われる。僕個人の意見としては、高等遊民は人生経験として有益と思うため、きっと彼の人物形成に活き、それが作品にも通じているのだろう。冊数をこなすという意味では、彼の作品を読むことは時間がかかるため、非効率である。ただ、軽い作品ばかり読んでいると、それはそれでビジネス書や自己啓発書ばかりを追いかけていた昔に戻ってしまうので、我慢するべきどころだろう。僕は昔からなぜか早く本を読まないといけないという焦りが心の中にあるので、それを抑えることも、今回の読書習慣形成を通して改善したいポイントである。斜め読みになりすぎており、それは情報取得という面では良いのだけれど、論理を追えないし、なんとなく理解することを繰り返しているだけで身になっていないと感じている。

 

今後

このまま100冊読んだら、何か変わるかもしれないと思っている。本当は学術書にも取り組みたいが、思考体力(読書体力?)がついていかない気がする。学術書に取り組む前段階として、小説を100冊読むのもありと思っている。ただし、100冊にとらわれることなく、自分で学術書を読みたいと思ったら、読んでいきたい。

 

おまけ

明智光秀本能寺の変の前に読んだ句が気になった。

「時は今、雨が下しる、五月哉」