年末年始に一週間中国旅行に行ってきた

昨日まで研究室の先輩と中国旅行に行ってきた。

 

ルート

昆明〜貴陽〜桂林〜陽朔〜広州〜マカオ〜香港

 

旅行記は別途まとめるにしても、今日東京で過ごして旅行前後に起きた変化の方が重要であり、それをまとめたい。

 

旅行前後の変化

・寒い中の街歩きに対して、抵抗感がなくなった。

今日は上野と銀座を歩いた。合計15000歩にもおよび、かなり歩いたといえる。旅行中は一日中歩いた、かつ寒い中であることが普通だったため、それほど抵抗を感じなかった。また重いリュックを歩いていたため、重い荷物を持ってあるくことに対しても以前よりかなり容易であった。

これは合宿と同じ効果が生まれたのだと思う。つらい日々を乗り越えて、それが習慣化した。日数的にも3〜4日では意味がなく、7日というのがとても効果的だったと推測している。4日目のリバークルーズの時に、なにか急にスッキリした気持ちになって、何かを忘れることができた。やはりリフレッシュするためにも、一週間程度の長期休暇はたまに取らなければならないと強く感じる・

これはかなりポジティブなことで、外出するモチベーションが上がった。

 

・孤独感が薄れた

僕は独身31歳彼女なしの男で、とても孤独を感じていた。唯一給料が良いことだけが救いであり、それすらない人に比べたらかなりマシとは言えるが、辛かった。旅行中に読んだ体調管理の本によると、「孤独」と「不安」はとても健康に良くないとのこと。「不安」は給料である程度カバーできていたが、「孤独」はつきまとっていた。

今回、先輩と四六時中一緒に過ごしていたため、孤独を感じたことは一回もなかった。むしろ一人で過ごしたいと思うこともわずかだがあった。昔船乗りをしていたときや、シェアハウス等のように、誰かと共に過ごさなければいけないと思う。とりあえず、とても孤独感が改善されたのは良かった。

また、「かっこ日本人」という本では、一人暮らしというのは海外からみるととても異様な光景らしい。一般的に日本人は地縁血縁を大切にし、縛られているとのことだが、実は最も弱く縛られていない性質を持っているらしい。その結果一人暮らしが普通という現象が起きており、香港では結婚するまで家族で暮らすのが当然であり、欧米でも友人をシェアハウスすることが多いらしい。僕自身は一人暮らしにはかなりネガティブで、この歳になって恥ずかしいことかもしれないが、誰かと暮らしたい。

おまけではあるが、孤独であるとマスターベーションをする率が高くなることは昔から知っていた。今回旅行中はしたいとも思わなかったし、結局孤独感を埋めるために今までマスターベーションをしていたということがわかった。(結局そんなことで孤独感は埋まらないのだが)

 

上記2つは課題だとはわかっていたが解決できておらず、今回解決とは言わないまでも、改善に向かってとても嬉しい。これだけでもこの旅行は個人的に有意義であったと間違いなく言える。マッサージや筋トレで解決しようとしていたが、それでは解決できないこともある。

 

取り急ぎ今日感じたことをまとめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見えるものと見えないもの

佐藤優の「世界史の極意」を読了。

Amazon.co.jp: 世界史の極意 (NHK出版新書 451): 佐藤 優: 本

 

印象に残った点

本で「神学」は目に見えないことを扱う学問であり、「神学部」がない大学はヨーロッパでUniversity(総合大学)を名乗れないという点が印象に残った。

イギリスでは成文法ではなく不文法であり、当然ながら目に見えない。イギリスが不文法にした理由については知らないが、伝統を大切にするためという理由はあるだ追う。また、不文法を利用していることが鑑みて、ヨーロッパの中でもイギリスはより目に見えないことを扱うことを重要視していると言えるだろう。

 東大大学院時代の先生もイギリス推しではあったが、それは上記のように目に見えないもの(より根本的なもの)を追う思考を評価していたように思われる。

 具体的にはヒトラーに戦争を仕掛けられたとき、アメリカは「どうやって勝つか」を考えるのに対して、イギリスは「そもそもなぜ彼らは戦争をしかけたのか」を考える傾向にあると述べていた。それは現象のより根本的な理解を深めるに貢献するため、評価していると理解している。

 

見えないものを見ることが教養

出典は明らかでないが、見えないものを見ることが教養という話を聞いたことがある。

 この文から最初に思い出すのは、「大切なものは目に見えない」(Important things are invisible)というペルソナ2で使用されている言葉だった。

そこでは「人の感情」・「夢」といったものを指す時に使われていた気がする。

 

マンションの明かりを見て、その明かり一つ一つに人生が詰まっていると、各明かりの裏にある人生の大きさに思いを馳せることは、見えないものを見ることだと解釈している。
この場合、「明かり」を媒介にした物事に対する想像力と言えるだろう。
それは最初に述べた「感情」に対する想像力と同じで、感情は事実や態度を媒介として推測する。

人は見たいものだけを見る、とパスカルは言っていたらしいがその通りだと思う。マンションの明かりを見て、技術の進歩に感動する人もいれば、それが大多数の人に普及していることに注目する人もいる。事実は一つだが、解釈は無限に行うことができる。より多く・深く解釈ができる人が、複眼思考、多面的に見れるというのだろう。

 

目に見えるものは誰にでも理解できる。それは事実だから。事実を否定することは難しい。
厳密にいえば、事実の解釈、事実の認識は変更することはできる。「ノートがある」の解釈は、「本がある」に変更することができるといった具合にだ。
しかし、「一辺が閉じられた紙の束ががある」という事実は変わらない。

 

誰にでも理解できることは良いことか悪いことか

最後にだが、「誰にでも理解できる」という言葉には、マイナスとプラスの両方のイメージが湧く。プラスと言えば、多くの人に影響を与えられる、簡単に理解できる、といった点だろう。一方、マイナスと言えば、衆愚政治と言われるような、大衆に利用されるイメージがある。

 

特に理由はないが、注意していきたい。

 

以上雑記帳なので、まとまっていないが、「見えないもの」に対する一考察としたい。