書評:ヨーロッパ退屈日記

この年末年始で伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」を読んだ。

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫) | 十三, 伊丹 |本 | 通販 | Amazon

 

60年前の本であるが、今読んでも本人の思考や当時の風潮について気づきがあり、学びが多い。筆者は白人崇拝の念を持ち、特に西ヨーロッパに憧れを持ち、アメリカや日本を下に見ている。ただ、1960年頃は文化面でイギリス、フランス、イタリアが優れていた時代だったのかもしれない。そして情報が限られていた当時においてこの生活や仕事に根ざした本は衝撃を与えたことを想像に難くない。

 率直な感想としては「粋」「かっこよい」「正統」という言葉が浮かび、個人的には憧れを頂いた。貴族趣味を礼賛しており、貧乏くさいものは嫌だと言っており、中途半端に着飾っているものはミドルクラスと詰っている。より洗練さえたものである、正当な服装、食事、発音、運転、そういったものを褒め称えている。コストパフォーマンスではなく、本当に美しいもの、かっこよいものを目指し褒め称えるという姿勢は純粋であり、貧乏そのものではなく「貧乏が故に」という妥協が入り交じることで純粋でなくなることを毛嫌いしている筆者の考えは、共感できるものであった。

 

 以下気になった部分を書く。

・現在の映画が撮影所製の段取り芝居の粋を抜け出て「実在性」を取り戻そうとするなら、私の場合、その推進の軸は「日常性」をおいて他にないと思います。

・旅行者への些細なふるまいから、その国に対する確固たる印象を作り上げているので、旅行者へ接する際にはその国を代表していると思わねばならぬ

・正装の快感:個人に格式を強制してくる社会というのは嬉しい存在ではないか。日本とは逆である。日本では、個人が社会に格式を要求せざるを得ない。同然なんの効果もなかった。

・正装をするというのは愉しいことである。社会の掟に進んで身をまかせ、自らを縛する、というところに、一種の快い、引き締まった安堵がある。タキシードを着て凛々しい快感を覚えぬ男がいるだろうか。汽車の中でステテコ姿を養護する人がいるが、彼など、正装した時の精神的な爽やかさを知らぬものとしか考えられないのである。

・わたくしとても最初から正装を好んだわけではない。仕方なく着せられて味をしめたに過ぎない。正装というのはそういうものである。着れば必ず味をしめるのである。やはり本来的なもの、正統なものには、誰しも共感するのである。社会が個人に正装を矯正する意味は、まさにここに存在する。つまり、みんなが味をしめるようになればよいのだ。

・正統なものを中心に据える。当然のことではありませんか。「お洒落」という、いささかインチキ臭い言葉よりも身嗜みということを大切にしようではないか。

中流階級は立派な店の店員をしていることがあるが、これは世間体のための仕事である。

・貧乏くさいものは嫌いである。貧乏そのものはなんとも思わないが、貧困に由来するもの、つまり「貧ゆえの」という感じがやりきれない。貧乏はしていても、貧乏くさいマネはいやだね。毅然たる構えがほしいね。ビートルズの幸甚に拝しても、物質的にも精神的にも自分を下層階級と証明する必要はどこにもないと思うのだが、

・いかにも「人間の知恵」というものをそのまま視覚化したような工合に、実にカラクリめいて嬉しいのである。いわば心が通うのである。この、寸分の無駄のない作品に、麗々しくイニシャルを彫り込むという神経、これは絶対に許すことができない。

・街、という、どんなにでも勝手気ままに穢くなりうるものが、あんなに美しいままの姿で存在し続けているという事実、これが実に信じがたく思えるのです。もしシャンゼリゼの一角に銀座をそっくり再現してみたら、これは一見スラム風に見えてくるのではなかろうか。

・なぜパリは美しいか:建物が石造りであるので建物の大部分を占める壁を快く処理、いかに快い物質感で埋めている。そして窓が縦長で数が多く、リズムが良い。更に建物の高さが大体そろっているので、建物の集合が一つにまとまっていて、巨大な建物が一つある、みたいな感じになる。ここに一つの単純化がおこなわれて、それがパリを美しくする一つの足がかりになっている。

・美的感覚とは嫌悪の集積である。

・偏見を得ようとするなら旅行にしくはない

・かつては美しかった、日本人の人情を失わないようにしようじゃないの。思いやり、気兼ね、遠慮、謙遜。こういったものは、世界のどこにも例の無い美しい国民性なんだ。例えば敬語と味覚だ。

・タキシードも英国人がロンドンで着ていると、ひどく地味な衣装に見えてくるから奇妙である。ここらあたりに、英国風のお洒落の真髄があるのかもしれない。つまり、絶対に華美であってはならない。斬新奇抜であってはならない。独創的であってはならない。個性的であってはならないのです。そんなものは独りよがりに過ぎぬ。

・イタリーは美しい国である。旅行案内風にいうなら「風光明媚」であるイタリーを思うことは、例えば過ぎ去った夏を思うに似ている。常に陽がさしているのだ。底ぬけに明るい陽の光が、いつもいつも満ちているのです。空が、トロリと青い。風が吹いて、樹々の葉がキラキラと光る。葡萄の畑、オリーブの丘がなだらかに、緩やかに起伏する。いかにも「粛然」という面持ちで、くろぐろと直立しているのは、あれは糸杉である。

若い人たちモーツァルトを単純、単調、冗漫だと思う。人生という嵐によって鈍化された人だけが、単純さの崇高な要素と、霊感の直接性を理解するのである。

・楽器というのは愉しいものである